東郷平八郎銅像 とうごうへいはちろうどうぞう

日本海軍の連合艦隊司令長官

1903年日本海軍の連合艦隊司令長官となり、1905年日露戦争で大戦果をあげた東郷平八郎の銅像です。
1957年5月27日、雨田光平によって制作されました。同年に岡山県より移設。本体は1.8m。
(東郷平八郎について)
1847年(弘化4)~1934年(昭和9)
「東洋のネルソン」と称された海軍提督。下加治屋郷に生まれた。

母益子の厳格な教育を受け14歳で元服し、書役としで藩庁につとめた。文久3年、薩英戦争では父、兄2人とともに参加し、満16歳で初陣した。このとき、母は一言「負けやんな」と言って送り出したという。この戦いで東郷は「海から来る敵は、海で防ぐベし」と信念を固め、西洋の進んだ軍備と海軍の重要性を悟り海軍に入ったという。

戊辰戦争では薩摩の軍艦「春日」の乗組員として活躍した。戦争が終わると英国に留学した。西南戦争のときは、ケンブリッジにいた。日清戦争のときは大佐として艦長になり、停戦命令に応じなかったイギリスの船を沈め、宣戦布告のきっかけをつくった。

東郷の名を世界にとどろかせたのは、1905(明治38)年のロシア・バルチック艦隊との日本海海戦である。5月東郷連合艦隊司令長官の率いる日本海軍は、ロシアの精鋭艦隊を日本に迎え撃ち、日露戦争の勝利を確実にした。

「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日、天気晴朗なれど波高し」。「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」。どちらも、この海戦における東郷の発した報告と訓令である。戦後、元帥となり、1934(昭和9)年5月になくなり、国葬には多くの人々が参加した。

祇園洲近くの多賀山公園に、東郷平八郎の遺髪を納めた墓と銅像が立っている。

(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)


エリア
ウォーターフロント
カテゴリー
歴史学習

基本情報

住所 〒892-0802 鹿児島県鹿児島市清水町
アクセス 鹿児島中央駅から車で約20分

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