コース9【2】:日本遺産 薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群「麓」を歩く~鹿児島の本城 城山を歩く-1

コース9【2】:日本遺産 薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群「麓」を歩く~鹿児島の本城 城山を歩く

  • 所要時間:1時間30分
  • 主な交通手段:徒歩
令和元年5月に日本遺産に認定された鹿児島城跡や「麓」と呼ばれる武家屋敷のうち、鹿児島城山跡を歩くコースです。
鹿児島市民に親しまれている城山に山城の跡が残っています。土塁、空堀、切岸の跡等を見ながら山城の様子に想いを寄せるコースです。

集合場所:まち歩き観光ステーション
解散場所:城山展望台駐車場

集合時間
午前の部:10:00
午後の部:14:00

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まち歩き観光ステーション

大手口跡

南北朝時代、豊州(今の大分県)の豪族上山氏が城山に山城を構えました。その後、初代藩主島津家久は城山の裾野に鶴丸城を築城した。1615年の一国一城令により城山は後詰の城になったが江戸時代の中頃までは本丸として位置づけられていました。
大手口は城山にある本丸へ通じる正門で重要な役割を果たしていました。最近、大手門のすぐ上あたりにこぶし大の石を集めて固めた「地業」と呼ばれる建物の基礎遺構や石列、土塁が出土しました。これらから瓦をふいた屋敷があった可能性が高いと言われています。
 

城山(城山展望台・城山自然遊歩道)

桜島を望む絶景スポット、西南戦争最後の激戦地
城山(城山展望台・城山自然遊歩道)-1
明治40年大正天皇が皇太子時代に鹿児島に来られた時城山展望台ができました。その後、皇室の方をはじめ多くの人々が訪れるようになりました。城山展望台からは桜島、錦江湾、鹿児島市街地を一望できる場所で鹿児島市は東洋のナポリと言われています。桜島は噴煙を上げている活火山で大正3年には大爆発があり大隅半島と陸続きになりました。

二之丸跡(ドン広場・西南戦争薩軍本営跡)

南北朝から続く天然の要塞、山城
二之丸跡(ドン広場・西南戦争薩軍本営跡)-1
南北朝時代、豊後(今の大分県)の豪族上山氏が城山に山城を構えここを二の丸としました。
この二の丸跡に大正時代12時の合図を鹿児島市民に空砲で知らせたことからどん広場と呼ばれるようになりました。どん広場の回りは土塁で囲まれ高くなっています。土塁は石が入手しにくい山城等で多くみられ敵の侵入を防ぐために土を盛り上げて築いた砦でした。
明治10年の西南戦争では薩軍は追われて城山へ帰りどん広場に本営を置きました。土塁は薩軍本営跡から本丸との境まで続き、高さは5mから10mほどです。
土塁の右側はシラスの崖を削って出来たV字形の谷で水のない空堀です。鹿児島の山城はシラス台地上に作られた山城が多く回りには空堀が多いです。

 

新照院口跡

城山の道の一つ、無言坂
新照院口跡-1
鹿児島城の北側に新照院口があります。新照院口は城への入口でしたが、敵の侵入を防ぐために急峻な坂道となっています。新照院方面より城山を見ると鶴が羽根を広げた姿に似ているため、城山の山麓部にできた城を鶴丸城と呼ぶようになったと言われています。鹿児島城は、城山に造られた山城と山麓部に造られた鶴丸城を合わせた城でした。

本丸跡(遠景)

 城山のテレビ塔の西側は切り立った崖となっています。この崖はシラスの崖を切り取ってできた切岸です。切岸の高さは30mを超すほどでこの崖の上に山城の本丸があります。徳川幕府が一国一城令を出すまではここが城の本丸で島津一門の島津常久が城代として務めていました。

岩崎口(遠景)

  山城の北側の少し低くなった所に岩崎口があります。新照院口と同じように城への入口であり、敵の侵入を防ぐための重要な場所です。岩崎口周辺は西南戦争の最後の激戦地となった場所で西郷隆盛が介錯を受け切腹した場所が近くにあります。岩崎口の遠方に中世の頃島津氏が居城とした東福寺城や清水城が見えます。
 

城山展望台駐車場

無料の駐車場。鹿児島ならではのお土産もお買い求めできます。

GOAL

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