樺山資紀 かばやま すけのり

1837(天保8)年~1922(大正11)年

資紀は城下西田町に橋口与三次の三男として生まれ、1863(文久3)年、樺山四郎左衛門の養子となった。幼い時の名前を覚之進といい、武道をたしなんだ。

1868(明治元)年、鳥羽伏見の戦では薩摩藩二番遊撃隊小荷駄方として伏見淀で幕府軍と戦い、次いで東山道先鋒隊として簗田・白河・会津と力の限り戦った。外城、地頭、大隊長となり、陸軍に入って陸軍少佐となった。

1874(明治7)年、台湾の高砂族が海難の琉球人を殺害した責任を問うべきと、台湾討伐の必要を政府に訴えた。これを台湾事変というが、西郷従道が総指揮官となって台湾南端の山地で戦い、戦死傷29名、病死者561名を出したが、高砂族を鎮撫して清国と和平条約を結び、清国に対して琉球が日本の領土であることを確認させた。この功績により中佐となった。

1876(明治9)年、熊本鎮台参謀長となり、翌年の西南戦争では司令官谷干城を助けて熊本城を守った。1878(明治11)年、大佐、近衛参謀長となった。1881(明治14)年には警視総監を兼ねた。やがて、陸軍少将となり、1883(明治16)年には海軍大輔となった。そして、第1次山県内閣に海軍大臣、第1次松方内閣に陸軍大臣を務め、のち枢密顧問官となった。

日清戦争では海軍軍令部長として戦場に行き、手柄をたて、翌年、海軍大将となり、さらに伯爵を授けられた。その後、初代台湾総督、内務大臣、文部大臣を歴任、86歳で亡くなった。

(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)


カテゴリー
歴史・史跡

このページを見ている人は、こんなページも見ています

当サイトでは、利便性の向上と利用状況の解析のためにCookieを使用しています。引き続き閲覧する場合はCookieの使用に同意したことになります。詳細はクッキーポリシーをご確認ください。