黒田清隆 くろだ きよたか

1840(天保11)年~1900(明治33)年

黒田清行の長男として城下新屋敷(現・山之口町)に生まれた。通称は了介といった。

薩摩藩の砲隊に入り、薩英戦争後は大山巌などと江戸の江川塾に入り西洋砲術を学んだ。

1865(慶応元)年、西郷隆盛の使者として長州に行き木戸孝允などの上京のために働き、翌年正月、薩長同盟を成立させるため奔走した。

戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いの後、北陸道鎮撫総督参謀となって功績をたて、降伏した庄内藩に西郷と一緒に寛大な処分を行い、薩摩と庄内連携の糸口をつくった。

1869年、函館征討参謀となって、五稜郭にたてこもった榎本武揚などを降伏させ、生命をかけて彼の命を助けた。このことは、世間の人に武人のかがみと称えられた。また、榎本武揚と一生、無二の親友となり、親戚関係まで結んだ。

外務権大丞、兵部大丞の役職に任命され、1870(明治3)年には開拓次官となり、留学生を率いてアメリカへ渡った。また、現職の農務局長ホーレス・ケプロンを招いたり、技術者を育てるための開拓使仮学校も建てたりして、北海道開拓の基礎を築いた。

1874(明治7)年に陸軍中将、次いで参議、開拓長官となった。翌年、特命全権弁理大臣として朝鮮に渡り、江華島事件を処理した。

西南戦争には征討参軍として参加したり、北海道開拓長官のとき、開拓使官有物払い下げ事件を起こしたりもした。

第1次伊藤博文内閣の農商務大臣となり、1888(明治21)年、大日本帝国憲法発布のときには第2次内閣総理大臣であった。その後、枢密顧問官や逓信大臣などの役職につき、1895(明治28)年には枢密院議長となり、その5年後の8月23日に亡くなった。

(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)


カテゴリー
歴史・史跡

このページを見ている人は、こんなページも見ています

当サイトでは、利便性の向上と利用状況の解析のためにCookieを使用しています。引き続き閲覧する場合はCookieの使用に同意したことになります。詳細はクッキーポリシーをご確認ください。