丹下梅子 たんげ うめこ

1873(明治6)年~1955(昭和30)年

鹿児島市金生町に生まれた。

3歳の時に不幸にも、事故のため右目が見えなくなってしまった。小学校時代の梅子は飽きっぽく、勉強が長続きしなかった。しかし、ふつうの女の子が遊ぶままごとや人形遊びも好きではなく、1人で木の皮をせんじで薬のようなものをつくったり、草の葉や木の実から色素を取りだしたり、天びんを作って遊ぶことを好む、ちょっと変った少女だった。

13歳の時、師範学校に入学した。最年少の優等生であった。途中、さびしさに負けて勉強をなまけたこともあったが、姉に励まされ、もとの梅子にもどるのであった。そして、いつも百点ばかり取るので「おだんごさん」と呼ばれるほどになった。18歳で母校の名山小学校の先生になった。小学校の先生を10年務めた梅子は、やがて、日本女子大学校の家政科へ入った。大学では化学の実験も落ちついて手ぎわよく行い、熱心に勉強した。

大学を卒業後、助手として働いていた梅子は、東北帝国大学(現・東北大学)に行くことになった。当時の大学としては女子が行くのは初めてのことで、男子学生から悪口を言われたこともあったが、次第に男子学生も梅子を知り尊敬していくのであった。

その後、梅子はアメリカのスタンフォード大学、コロンビア大学など四大学で九年間も研究を重ねた。帰国してからすぐに日本女子大学の教授になった。やがて、鈴木梅太郎先生のもとで研究を深めるのであった。

1940(昭和15)年、ビタミンB2の研究で東京帝国大学(現・東京大学)から農学博士号がおくられた。

こうして、一生を学問とともに生きた梅子も82歳でこの世を去った。

(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)


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歴史・史跡

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