川村純義 かわむら すみよし

1836(天保7)年~1905(明治38)年

上荒田町に生まれる。薩摩藩士、海軍大将。

少年時代より兵学を学び砲術も修めた。

1855(安政2)年に薩摩から選抜され、勝海舟と長崎海軍伝習所で学んだ。

1868(明治元)年の鳥羽・伏見、戊辰戦争で活躍し、特に味方が会津若松城を攻撃しやすいように策を講じた。

1871(明治4)年に兵部少輔、1872(明治5)年には陸海軍両省が設置され海軍少輔に任ぜられた。

1874(明治7)年の台湾出兵の際、海軍中将兼海軍大輔となる。

川村は西郷隆盛のいとこで、妻・春子は西郷の母の姪にあたる。西南戦争を避けるため、1877(明治10)年2月9日、高尾丸で鹿児島を訪問し、義父・椎原国幹宅で西郷隆盛と会談する予定だったが、県令大山綱良との事前の話し合いはできたものの、泳いで高尾丸に乗船しようとする私学校徒たちに危険を感じ、船を桜島沖に退避させたため、西郷との会談は絶望的となり鹿児島・東京を結ぶ糸は切れてしまった。

1877(明治10)年の西南戦争で政府軍参軍、1878(明治11)年参議兼海軍卿となる。

1885(明治18)年、宮中顧問官となり、1888(明治21)年枢密院顧問官に任ぜられた。

明治天皇からの信任が厚く、1901(明治34)年、昭和天皇の養育主任となった。

1905(明治38)年、死去に際し、海軍大将となった。69歳で没した。

(参考:「もっと知ろうよ維新のまち」鹿児島市・平成23年3月発行)


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歴史・史跡

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